天才と凡人の違い

2007年1月29日
さっき過去問解いてたらなかなかいい文章見つけた。
カードにも起き変えれるなとか考えた俺乙w

どの分野でも独創的な才能は稀だ。
それでもできれば独創的な仕事をしたい、どうすればできるのか、と誰もが考える。
独創性の訓練法や天才の研究というのもあるにはあるが、
そうした研究が特に独創的というわけではないようだ。
ひとつには、立てる問いを間違えているからではないか。

独創性を考えるときすぐ浮かぶ典型的な問いは、次のようなものだろう。
普通人が思いつかないことを、なぜ「才能のある人」だけが思いつくのか。
独創性の本質は何か。どうすれば独創的な発見や創造ができるのか、等々。

これらの問いに明確な答えはまだない。
がそのまわりには、もう少し取りつきそうな疑問もある。
たとえば、なぜ発見や創造は難しいのか。
にもかかわらず、コロンブスの卵と言われるように、
ひとたび達成されるとすぐにわかり「独創的」として人々に承認されるのはなぜなのか。
そもそも人はなぜ発見できるのだろう。
また発見できたとしても、それがまさに探し求めていたものだとどうしてわかるのか。
「知っている」と「知らない」の二分ではなく仮に潜在的、暗黙的な知識の範囲を考えることでこの謎は氷解する。
潜在的領域にあった知識や関係を明るみに持ち出すことで、
創造的な発見につながるのではないか。

リンゴはどこでも同じように落ちるのを誰もが見ているが、
ニュートンだけが万有引力の法則を発見した。
彼が偉大なのは、不透明で見えていなかった単純な法則を見えるようにしたからだ。
定理を証明する数学者や、石油を発掘するエンジニも、見えなかったものを見えるようにしたという点は同じだ。
むろん定理の発見と石油の発見では事情が違うが、いずれの場合にも暗黙知に基づく認知的な推論が働いている。
これらの例に共通しているのは、知の不透明な部分をクリアにし、暗黙的な知を顕在知の領域に持ち込む作業をしていることだ。
定理や石油は発見されるのを待っていたとも言える。

それにしてもこうした暗黙知は、いったいどこに存在しているのか。
場合によっては「外の世界に」「内なる心のどこかに」というふたつの答えがあり得るが、このふたつは実はみかけほど違わない。

(中略)

暗黙知をことあらためて述べればなんでも独創的、という訳ではない。奇抜とは違う。
この違いを理解するには、全体の違いに注意を向けるといい。
囲碁やオセロを知っている人なら、わかりやすいだろう。
基盤目の一点に石を置いて、それだけで周囲が変わらないなら、価値の低い手だ。
同じ一手でも妙手は盤面全体の状況を変え、新しい展望を与える。
科学者やデザイナーでも、まだ打たれていない目だからといって、
しらみつぶしにひとつずつ試していくのは凡手。
達人はグローバルな文脈から俯瞰して、その文脈自体を変えてしまう一手を放つ。
結局独創的な人とは「全体的な状況を把握し、暗黙知と顕在知の間を行き来できる人」ということになろうか。

下条信輔「ヒト科学21」(朝日新聞)による。

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